皆さま、こんばんは!!
奈良から帰って参りました!
奈良に行く前にどーーーーーーーしてもホツマツタヱ39アヤ「ホツマツウチ・ツズウタのアヤ」
の暗唱を終わらせなければ。。。
と頑張りましたヽ(;▽;)ノ
お蔭様で最後の木曽路も越えられました😹
いや、ヤマトタケ様のご苦労を思えば
なんてことはないです(((✿ฺ≧▽≦)彡☆
さて。。。
前回の記事『フルと舞のこと・・その1•いそのかみ』の冒頭にも書きましたが、
多(おお の)忠朝(1886〜1956)さま・静子(1912〜2013)さま父娘の家系は
神楽と舞を伝え楽祖と呼ばれた9世紀の多自然麿(おお の じぜまろ)さんに始まるとされています👀
以来、多家(多氏)は皆さんが良く知る東儀家などと共に宮中雅楽の1,000年以上続く御神楽の主要な担い手の名家です。
さて。。
「雅楽なぞ平安とかだろ??
しかも別にヲシテとかに関係ないじゃん??」
(と、靫が重くて酒折宮に到着が遅れて燈を点すのが遅れたサブライの台詞のようですが(((✿ฺ≧▽≦)彡☆)
と、思われますか👀??
ところが
大嘗祭をはじめ宮中の行事には欠かせませんし、
明治以降の楽士さんたちは雅楽、舞楽、洋楽オーケストラの楽器までマスターしなければならないのですよヽ(;▽;)ノすんごいエリート!!
(あぁそこも詳しく書きたかったのですけど、もう力尽きた😫)
そして。。。。
その多氏の始祖がナントっっ!!!
綏靖天皇のお兄様の
カンヤヰミミさまなのですよヽ(;▽;)ノ
アテクシね、この方が好きなのですよ(*≧ლ≦)
では早速ホツマツタヱでカンヤヰミミさまのこと見ていきましょう👀
31~27 8048 タギシミコ フタオトおタツ
8049 ウネビネの サユノハナミと
8050 ミアエシテ ムロヤニメセバ
神武天皇が127歳で崩御なさって、
アヒラツ姫の息子である異母兄のタギシミミは
ヰソスズ姫の息子である二人の異母弟、カンヤヰミミ(この時52歳)とカヌガワミミ(綏靖天皇)(この時51歳)
殺そうと、サユ川にピクニックに行こうと騙して誘い出します。
それを母ヰソスズ姫が覚り、ウタに詠んで二人の皇子に知らせます。
(あ〜〜長いので引用割愛しますね😹)
賢いカヌガワミミ様はそれで悟り、
「自分が盾となって先ず入るから、兄さんは矢を射ってくれ」と提案します(`◕‸◕´+)シャキン
そしてカヌガワミミ様突入ε=ε=(๑و•̀ω•́)و
しかしタギシミミが気付き斬りかかろうと!!!
そこで手足わななき手も足も出ないカンヤヰミミ((((;゚Д゚)))))))
スワッ!!そこにカヌガワミミ様が一矢をタギシミミの胸にすかさず射り
もう一矢を背中に射って56しました(。-人-。)
肝心な時に怖気付いて何も出来なかったカンヤヰミミ様は
自らのことを『ミシリツヒコ(見て知っても何も出来なかった。。。)』と
自責の念から名前を変え、
トイチ(十市)に住んで『イホのトミ』と名乗られ、
弟君のトミとして弟君を助け、
また死んだ兄タギシミミのことも祀って行くのです(。-人-。)
確かに怖気付いたかも??ですが、なんかご謙虚でとても人の良い方なのですよね੭່ʓ (Ō̥̥̥̥̥̥̥ ԑ Ō̥̥̥̥̥̥̥ ૢ) ੭່ʓ
こうして『イホのトミ』となったミシリツヒコ=カンヤヰミミ様なのですが、
では何故「イホ」から「オホ(オオ)」になったのでしょうか👀??
これは漢字表記にその過程が見られる感じですね(*´∇`*)
多坐弥志理都比古神社
そういえば、数年前に池田先生と熊野に行った時にも「ナギの木」を教えていただいた記憶があるのですが、葉っぱをよく見るのは初めてです👀
ナギ・・・漢字だと『梛』と書くようですが、イサナギさまを思い浮かべちゃう(๑´ლ`๑)フフ♡
ツヤツヤして油分
が沢山含まれているようで、しかも葉脈が縦方向の筋なだけなのですΣ('◉⌓◉’)
そして。。。
ナギで思い出しました💦
紹介し忘れそうでしたが、「浦安の舞」の作詞は昭和天皇(の御製)ですが、「朝凪(あさなぎ)」部分が舞のクライマックスですヾ(*´∀`*)ノキャッキャ♪
更にお庭もご案内していただき、
オガタマの木も教えていただき
オガタマノキの実が浦安の舞にも使う神楽鈴の形なんだと教えていただいたり(●ꉺωꉺ●)
や烏瓜(カラスウリ)も見せていただいたり
イチイガシのドングリをいただき、
また蝋梅の花の枝もいただきました!!
帰りの車中が蝋梅の良い香りが充満して幸せでした😻
ありがとうございました💕
また多氏の傍系の子孫には古事記の編者の太安万侶さんもいらっしゃるみたいで、
一般の参拝客には安万侶さんが一番有名らしく(*≧ლ≦)
私はそれより稗田阿礼の方が気になります、その件についても宮司さまから興味深いお話も。。。
自分はホツマツタヱ39アヤまで暗唱しましたが、
稗田阿礼さんと違って記憶の天才であるわけでなく、阿礼さんの何百倍も練習してるから
やっと暗唱できるのです。。。
でもちょっと興味あるの(#^.^#)
だって本当は阿礼さんが誦んだのとは違う風に記録されてしまったのかも??
なぁんてね。。(((✿ฺ≧▽≦)彡☆
また多氏の子孫には
『鉄道唱歌』の作曲者・多梅稚さん
『宵待草』の作曲家・多忠亮さん
トニー谷の『さいざんすマンボ』の作曲家・多忠修さんもいらっしゃるなんて(●ꉺωꉺ●)
アテクシの愛唱歌ばかりじゃあ〜りませんか?さいざんす(*≧ლ≦)
書きたいことは尽きませんが、
もう遅いので。。。この辺で。。。
じゃあ。。。やっぱり最後は
さいざんすマンボ貼って
(実は旅の途中iPhoneから記事一本アップロードしたの消えたのヽ(;▽;)ノ
保存もされてなかったヽ(;▽;)ノ)
最後の動画は「浦安の舞」でも貼れば、少しは格もあるってものを。。🤣
奈良から帰って参りました!
奈良に行く前にどーーーーーーーしてもホツマツタヱ39アヤ「ホツマツウチ・ツズウタのアヤ」
の暗唱を終わらせなければ。。。
と頑張りましたヽ(;▽;)ノ
お蔭様で最後の木曽路も越えられました😹
いや、ヤマトタケ様のご苦労を思えば
なんてことはないです(((✿ฺ≧▽≦)彡☆
さて。。。
前回の記事『フルと舞のこと・・その1•いそのかみ』の冒頭にも書きましたが、
多(おお の)忠朝(1886〜1956)さま・静子(1912〜2013)さま父娘の家系は
神楽と舞を伝え楽祖と呼ばれた9世紀の多自然麿(おお の じぜまろ)さんに始まるとされています👀
以来、多家(多氏)は皆さんが良く知る東儀家などと共に宮中雅楽の1,000年以上続く御神楽の主要な担い手の名家です。
さて。。
「雅楽なぞ平安とかだろ??
しかも別にヲシテとかに関係ないじゃん??」
(と、靫が重くて酒折宮に到着が遅れて燈を点すのが遅れたサブライの台詞のようですが(((✿ฺ≧▽≦)彡☆)
と、思われますか👀??
ところが
大嘗祭をはじめ宮中の行事には欠かせませんし、
明治以降の楽士さんたちは雅楽、舞楽、洋楽オーケストラの楽器までマスターしなければならないのですよヽ(;▽;)ノすんごいエリート!!
(あぁそこも詳しく書きたかったのですけど、もう力尽きた😫)
そして。。。。
その多氏の始祖がナントっっ!!!
綏靖天皇のお兄様の
カンヤヰミミさまなのですよヽ(;▽;)ノ
アテクシね、この方が好きなのですよ(*≧ლ≦)
では早速ホツマツタヱでカンヤヰミミさまのこと見ていきましょう👀
31~27 8048 タギシミコ フタオトおタツ
8049 ウネビネの サユノハナミと
8050 ミアエシテ ムロヤニメセバ
神武天皇が127歳で崩御なさって、
アヒラツ姫の息子である異母兄のタギシミミは
ヰソスズ姫の息子である二人の異母弟、カンヤヰミミ(この時52歳)とカヌガワミミ(綏靖天皇)(この時51歳)
殺そうと、サユ川にピクニックに行こうと騙して誘い出します。
それを母ヰソスズ姫が覚り、ウタに詠んで二人の皇子に知らせます。
(あ〜〜長いので引用割愛しますね😹)
賢いカヌガワミミ様はそれで悟り、
「自分が盾となって先ず入るから、兄さんは矢を射ってくれ」と提案します(`◕‸◕´+)シャキン
そしてカヌガワミミ様突入ε=ε=(๑و•̀ω•́)و
しかしタギシミミが気付き斬りかかろうと!!!
そこで手足わななき手も足も出ないカンヤヰミミ((((;゚Д゚)))))))
スワッ!!そこにカヌガワミミ様が一矢をタギシミミの胸にすかさず射り
もう一矢を背中に射って56しました(。-人-。)
肝心な時に怖気付いて何も出来なかったカンヤヰミミ様は
自らのことを『ミシリツヒコ(見て知っても何も出来なかった。。。)』と
自責の念から名前を変え、
トイチ(十市)に住んで『イホのトミ』と名乗られ、
弟君のトミとして弟君を助け、
また死んだ兄タギシミミのことも祀って行くのです(。-人-。)
確かに怖気付いたかも??ですが、なんかご謙虚でとても人の良い方なのですよね੭່ʓ (Ō̥̥̥̥̥̥̥ ԑ Ō̥̥̥̥̥̥̥ ૢ) ੭່ʓ
こうして『イホのトミ』となったミシリツヒコ=カンヤヰミミ様なのですが、
では何故「イホ」から「オホ(オオ)」になったのでしょうか👀??
これは漢字表記にその過程が見られる感じですね(*´∇`*)
多坐弥志理都比古神社
多坐弥志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社と読みます(∩╹∀╹∩)
「みしりつひこ」と名乗った由来はホツマツタヱ通りなのですけど、
「イホの筈では??」ですよね??
今でこそ『多』ですけど、実はもっと古くは『意富(おお)』なのですよねლ(;ʘДʘ)ლ
この『意富(おお)』は
『意富斗能地(オオトノチ)』おお!第5代アマカミ!!!
『意富加牟豆美(オオカムヅミ)』おお!!桃🍑のオフカンヅミ!!
しかし逆に
『イホ』を『意富』または
『【イ】ホの【トミ】』を『意富』と書いたのかも??ですね。。。(;●ꉺωꉺ●) ゴクリ…
それが段々「オホ」⇨「オオ」と読むようになってしまったのではないでしょうか。。σ(・ω・`@)
この多氏のご子孫(つまりカンヤヰミミ様のご子孫?)は冒頭に挙げました多自然麿さんを始めとして、現代まで続く宮廷楽師の名家であり、
紀元二千六百年には多忠朝先生が昭和天皇御製の巫女舞「浦安の舞」を作曲・振付なさり
御令嬢の多静子先生が舞っていらっしゃいます(♡´◡`♡)
多坐弥志理都比古神社の宮司様も
「静子先生もよくいらしてましたよ🎵」と仰せでした☺️
因みに私の母も数え年12歳の時に
多忠朝先生のお作りになった「浦安の舞」を舞っていたことが母の葬儀の時判明Σ('◉⌓◉’)
えええええぇぇ!!生前私が巫女舞やってた時もそんなこと言ってなかったじゃん??
忘れてたの??
母は長野出身で諏訪大社のお膝元ですから諏訪神社の御祭礼で舞わせていただいたようです♪
しかし女姉妹が多かった母は姉がもう既に舞っているので、順番が回って来ることはない筈でしたが、たまたまその年はその地区(四つの各地区からその年の数え年12歳の女の子一人ずつしか選ばれない)に他に女の子が居なかったらしく選んでいただけたようです。
母の妹たちは 自分達も踊りたいのに悔しがっていた、とは叔母談。。。
本装束ではないものの、
かわいい千早(ちはや)を着て嬉しかったでしょうね♪♪
因みに巫女さんが着る上着『千早(ちはや)』とは『神』などに掛かる枕詞の『千早ぶる・ちはやぶる』からきているのでしょうが、
ホツマツタヱでは
『チワやぶる』はオモイカネ様がワザオキ(役者)達に歌い舞わせた歌舞(後にカンクラ⇨神楽になります)が拍手大喝采で地鳴りするほど轟いたことが『チワ(地)ヤブル(破る)とぞ楽しめば』だと思います(♡´◡`♡)(ホ7−46)
また『カンクラ』もこの時点では『カミの位』若しくは『カミ(がアマテルカミの岩室隠れで)暗かった』ということだと思います😺
いづれにしろ、『神楽(かぐら)』の語源ですねヾ(●´∀`●)ノ
多坐弥志理都比古神社の境内で一際緑の、気になる木がありました👀
遠目では橘か?オリーヴか??
宮司さまにお訊きしてみると
「あぁ、ナギの木です。」と葉っぱを一枚折っていただきました❤︎
「みしりつひこ」と名乗った由来はホツマツタヱ通りなのですけど、
「イホの筈では??」ですよね??
今でこそ『多』ですけど、実はもっと古くは『意富(おお)』なのですよねლ(;ʘДʘ)ლ
この『意富(おお)』は
『意富斗能地(オオトノチ)』おお!第5代アマカミ!!!
『意富加牟豆美(オオカムヅミ)』おお!!桃🍑のオフカンヅミ!!
しかし逆に
『イホ』を『意富』または
『【イ】ホの【トミ】』を『意富』と書いたのかも??ですね。。。(;●ꉺωꉺ●) ゴクリ…
それが段々「オホ」⇨「オオ」と読むようになってしまったのではないでしょうか。。σ(・ω・`@)
この多氏のご子孫(つまりカンヤヰミミ様のご子孫?)は冒頭に挙げました多自然麿さんを始めとして、現代まで続く宮廷楽師の名家であり、
紀元二千六百年には多忠朝先生が昭和天皇御製の巫女舞「浦安の舞」を作曲・振付なさり
御令嬢の多静子先生が舞っていらっしゃいます(♡´◡`♡)
多坐弥志理都比古神社の宮司様も
「静子先生もよくいらしてましたよ🎵」と仰せでした☺️
因みに私の母も数え年12歳の時に
多忠朝先生のお作りになった「浦安の舞」を舞っていたことが母の葬儀の時判明Σ('◉⌓◉’)
えええええぇぇ!!生前私が巫女舞やってた時もそんなこと言ってなかったじゃん??
忘れてたの??
母は長野出身で諏訪大社のお膝元ですから諏訪神社の御祭礼で舞わせていただいたようです♪
しかし女姉妹が多かった母は姉がもう既に舞っているので、順番が回って来ることはない筈でしたが、たまたまその年はその地区(四つの各地区からその年の数え年12歳の女の子一人ずつしか選ばれない)に他に女の子が居なかったらしく選んでいただけたようです。
母の妹たちは 自分達も踊りたいのに悔しがっていた、とは叔母談。。。
本装束ではないものの、
かわいい千早(ちはや)を着て嬉しかったでしょうね♪♪
因みに巫女さんが着る上着『千早(ちはや)』とは『神』などに掛かる枕詞の『千早ぶる・ちはやぶる』からきているのでしょうが、
ホツマツタヱでは
『チワやぶる』はオモイカネ様がワザオキ(役者)達に歌い舞わせた歌舞(後にカンクラ⇨神楽になります)が拍手大喝采で地鳴りするほど轟いたことが『チワ(地)ヤブル(破る)とぞ楽しめば』だと思います(♡´◡`♡)(ホ7−46)
また『カンクラ』もこの時点では『カミの位』若しくは『カミ(がアマテルカミの岩室隠れで)暗かった』ということだと思います😺
いづれにしろ、『神楽(かぐら)』の語源ですねヾ(●´∀`●)ノ
多坐弥志理都比古神社の境内で一際緑の、気になる木がありました👀
遠目では橘か?オリーヴか??
宮司さまにお訊きしてみると
「あぁ、ナギの木です。」と葉っぱを一枚折っていただきました❤︎
そういえば、数年前に池田先生と熊野に行った時にも「ナギの木」を教えていただいた記憶があるのですが、葉っぱをよく見るのは初めてです👀
ナギ・・・漢字だと『梛』と書くようですが、イサナギさまを思い浮かべちゃう(๑´ლ`๑)フフ♡
ツヤツヤして油分
が沢山含まれているようで、しかも葉脈が縦方向の筋なだけなのですΣ('◉⌓◉’)
そして。。。
ナギで思い出しました💦
紹介し忘れそうでしたが、「浦安の舞」の作詞は昭和天皇(の御製)ですが、「朝凪(あさなぎ)」部分が舞のクライマックスですヾ(*´∀`*)ノキャッキャ♪
天地(あめつち)の
神にぞ祈る
朝なぎの
海のごとくに
波たたぬ世を
昭和天皇御製
神にぞ祈る
朝なぎの
海のごとくに
波たたぬ世を
昭和天皇御製
更にお庭もご案内していただき、
オガタマの木も教えていただき
オガタマノキの実が浦安の舞にも使う神楽鈴の形なんだと教えていただいたり(●ꉺωꉺ●)
や烏瓜(カラスウリ)も見せていただいたり
イチイガシのドングリをいただき、
また蝋梅の花の枝もいただきました!!
帰りの車中が蝋梅の良い香りが充満して幸せでした😻
ありがとうございました💕
また多氏の傍系の子孫には古事記の編者の太安万侶さんもいらっしゃるみたいで、
一般の参拝客には安万侶さんが一番有名らしく(*≧ლ≦)
私はそれより稗田阿礼の方が気になります、その件についても宮司さまから興味深いお話も。。。
自分はホツマツタヱ39アヤまで暗唱しましたが、
稗田阿礼さんと違って記憶の天才であるわけでなく、阿礼さんの何百倍も練習してるから
やっと暗唱できるのです。。。
でもちょっと興味あるの(#^.^#)
だって本当は阿礼さんが誦んだのとは違う風に記録されてしまったのかも??
なぁんてね。。(((✿ฺ≧▽≦)彡☆
また多氏の子孫には
『鉄道唱歌』の作曲者・多梅稚さん
『宵待草』の作曲家・多忠亮さん
トニー谷の『さいざんすマンボ』の作曲家・多忠修さんもいらっしゃるなんて(●ꉺωꉺ●)
アテクシの愛唱歌ばかりじゃあ〜りませんか?さいざんす(*≧ლ≦)
書きたいことは尽きませんが、
もう遅いので。。。この辺で。。。
じゃあ。。。やっぱり最後は
さいざんすマンボ貼って
(実は旅の途中iPhoneから記事一本アップロードしたの消えたのヽ(;▽;)ノ
保存もされてなかったヽ(;▽;)ノ)
最後の動画は「浦安の舞」でも貼れば、少しは格もあるってものを。。🤣